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永豊(えいほう)は清朝、および中華民国の海防艦。永翔級砲艦の2番艦。孫文の死後「中山」と改名。数々の政治的事件の舞台となったことで知られる艦である。 == 艦歴 == 1894年、李鴻章の北洋艦隊は黄海海戦にて全軍艦を喪失。清朝政府は海軍の再建に巨額な出費を強いられることとなった。1910年、海軍大臣載洵は薩鎮氷提督を通じ、日本の三菱造船長崎造船所および川崎造船所に新たな二隻の洋式軍艦の建造を依頼した。建造費は当時の日本円にして68万円という莫大な金額だった。 本艦は長崎造船所にて同年起工。翌年の辛亥革命により完成が危ぶまれたが、袁世凱の北洋政府が受領することで同意したため建造は続けられた。1912年 進水。翌年1月9日竣工した。 3月15日、同艦は上海呉淞区へと運ばれ、「永豊」と命名された。永豊は中華民国海軍第一艦隊へと編入され、初代艦長には林霆亮が就任した。1917年の第一次護法運動では、永翔とともに孫文側につき、大きな役割を果たした。 1922年、第二次護法運動の際、孫文夫妻は粤軍総司令陳炯明との確執から総統府を追われ、艦長馮肇憲の計らいで永豊艦内へとかくまわれた。以降6月16日から8月9日に到るまでの間、夫妻は永豊艦内にて寝泊りを行い、事態の収拾を指揮した。 1925年3月12日、孫文は北京で亡くなった。これを機に、4月13日、永豊は “中山”と改名された。 1926年3月18日、共産党員であるとともに中山艦の艦長をつとめていた李之龍中将は蒋介石の名義とされる広州寄港の命を受けたが、蒋介石はこれを共産党及び国民党左派によるクーデターとみなし李中将を逮捕(のち死刑)、それに伴い周恩来ら黄埔軍官学校の共産党員を監禁、国民党左派の鄧演達を監視下に置いた。これはのちに中山艦事件と呼ばれる事となる。間もなく艦長は黄埔海軍学校校長の欧陽格へと交替された。 1938年10月24日 武漢攻略戦の際、日本軍の爆撃機6機の攻撃を受け撃沈される。当時乗艦していた乗組員99名のうち、艦長の薩師俊中佐以下25名が死亡した。 それから約50年が過ぎた1986年、湖北省文物部は中山艦の引き揚げ計画を発案、88年5月、南海艦隊が正式な位置を特定した。浮揚後の展示場所については江蘇省が88年に、広東省が91年に中山艦の受け入れを主張するなど一悶着あったが、1995年11月24日、国家文物局により湖北省の管理に置かれる事が決定した。 1996年11月12日、孫文の生誕130周年を記念し引上げ作業が実行に移された。1997年1月20日、全ての引き上げ作業が終了。その際、双眼鏡やランプ、食器など約3400件もの貴重品が発見され、中国各地で展示された。 1999年11月12日から湖北造船廠にて修復作業が始まり、2001年に修理後に記念艦となる。現在、武漢中山艦博物館として一般開放。 File:Chung-shan.jpg|中山艦 File:CC-20060916-永豐艦.jpg|台北市国父紀念館にある中山艦の模型。 File:Zhongshan Warship Museum.jpg|中山艦博物館外観。 File:Zhongshan Warship 2.jpg|博物館内部(2012年6月23日) File:Zhongshan Warship 1.jpg|艦尾 File:Zhongshan_Warship_Hole.jpg|胴体。日本軍の爆撃で空いた穴が残されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「永豊 (砲艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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